皆さん、ご無沙汰しています。去年12月にブログを終了した後も、私のその後の進路を心配され、ブログを訪問されている方がいることを知りました。
おかげさまで今年2月末、チュレーン大学公衆衛生熱帯医学大学院より博士課程進学の合格通知をいただきました。ただ給付型の奨学金には合格することができず、2013年8月より進学希望していましたが、2014年8月に入学を延期しました。
あと1年間、また給付型の奨学金に応募し、なおかつ研究フィールドであるタイ・ミャンマーの国境で国際保健のプロとして経験を積む予定です。
来年8月に渡米を目指し、また日々、研鑽していきたいと思います。
その後の私は以下のブログをご覧ください。
http://coolheadandwarmheart.blogspot.com/
心は熱く、頭は冷静に
米国ニューオーリンズで国際保健を学ぶナースの奮闘日記
2013/08/11
2012/12/24
さようならチュレーン、ニューオーリンズ、アメリカ
いよいよ旅立ちの時間が近づいてきました。早朝の便で日本に帰ります。
明日の朝4時に留学生の中でもとても仲が良かった中国人の友達に、車で空港まで送ってもらいます。朝早いからタクシーで空港にいくから大丈夫と言ったのですが、最後の最後まで私にお別れを言いたいからと彼女。彼女の顔をみたら泣いてしまいそうです。
この数日間、たくさんのお世話になった皆さんにお別れ会を開いてもらい、お手紙やお土産をたくさんいただき、私が今までどれだけたくさんの人に支えられてて過ごしてきたのかを感じていました。日本でもタイでも、たくさんの人に支え応援してもらい、無事卒業できたんだなと感謝の気持ちでいっぱいです。
私のブログは日々の勉強の話や、進路のことばかりで、自分の本質をあまり書く機会がなかったのではと思うのですが、幼い頃から私の夢は途上国で働くことでした。
その夢を実現させるために看護師になり、経験を積んで、タイ・ビルマ国境のメータオ・クリニックで医療ボランティア活動をしました。
クリニックで目の当たりにした、社会の主流から取り残されたビルマの難民、移民の人々が直面している現実に何もすることができず、むしろ彼らから人と人とのつながり、心の豊かさを学ぶばかりでした。
仲良くなったビルマ人スタッフは私にこう言いました。
「あいこには私達にはない自由がある。私たちのような人間が世界のどこかにいることを伝えて。」
レイプされたわずか9歳の女の子の怯えた顔。地雷で足がなくなった痛みに泣け叫ぶ患者さん。末期のエイズの母親を看取る子どもたち。
クリニックで目で見て肌で感じたことは色あせることなく、国際保健の分野で、私の人生を社会の主流から外れた人々のために捧げたいと思うようになりました。
チュレーン大学で国際保健を深く学ぶたびに、私の気持ちは確固なものとなりました。さらに専門性を高めるため博士課程に進んで、難民、移民、またビルマの人々を対象にした研究をすることを希望としていますが、たとえ進学できなくても、私を取り巻く周りの環境が許す限り、国際保健の分野でなんらかの形で活動していく決意をしています。
ニューオーリンズのコーヒーの香り、どこからともなく聞こえてくるJAZZの音色、陽気な街の人たちの声、壮大な送別会を開いてくださり、私の勉強をずっとサポートしてロータリーの皆さん、アットホームな大学院の先生たち、一緒に勉強した同志のクラスメート、留学生たちの笑顔。
私が今まで毎日当たり前にしていた光景が明日から消えてしまうのかと、寂しさが募ります。
最後まで皆さん、応援していただき本当にありがとうございました。
自分の可能性を信じて、また新しい扉を開いていきたいと思います。
Aiko
(このブログはこれでいったん終了にしようと思います。もし進学が決まれば、新たにブログを始めるかもしれませんが今日で終わりにします。今まで読んでいただきありがとうございました。)
明日の朝4時に留学生の中でもとても仲が良かった中国人の友達に、車で空港まで送ってもらいます。朝早いからタクシーで空港にいくから大丈夫と言ったのですが、最後の最後まで私にお別れを言いたいからと彼女。彼女の顔をみたら泣いてしまいそうです。
この数日間、たくさんのお世話になった皆さんにお別れ会を開いてもらい、お手紙やお土産をたくさんいただき、私が今までどれだけたくさんの人に支えられてて過ごしてきたのかを感じていました。日本でもタイでも、たくさんの人に支え応援してもらい、無事卒業できたんだなと感謝の気持ちでいっぱいです。
私のブログは日々の勉強の話や、進路のことばかりで、自分の本質をあまり書く機会がなかったのではと思うのですが、幼い頃から私の夢は途上国で働くことでした。
その夢を実現させるために看護師になり、経験を積んで、タイ・ビルマ国境のメータオ・クリニックで医療ボランティア活動をしました。
クリニックで目の当たりにした、社会の主流から取り残されたビルマの難民、移民の人々が直面している現実に何もすることができず、むしろ彼らから人と人とのつながり、心の豊かさを学ぶばかりでした。
仲良くなったビルマ人スタッフは私にこう言いました。
「あいこには私達にはない自由がある。私たちのような人間が世界のどこかにいることを伝えて。」
レイプされたわずか9歳の女の子の怯えた顔。地雷で足がなくなった痛みに泣け叫ぶ患者さん。末期のエイズの母親を看取る子どもたち。
クリニックで目で見て肌で感じたことは色あせることなく、国際保健の分野で、私の人生を社会の主流から外れた人々のために捧げたいと思うようになりました。
チュレーン大学で国際保健を深く学ぶたびに、私の気持ちは確固なものとなりました。さらに専門性を高めるため博士課程に進んで、難民、移民、またビルマの人々を対象にした研究をすることを希望としていますが、たとえ進学できなくても、私を取り巻く周りの環境が許す限り、国際保健の分野でなんらかの形で活動していく決意をしています。
ニューオーリンズのコーヒーの香り、どこからともなく聞こえてくるJAZZの音色、陽気な街の人たちの声、壮大な送別会を開いてくださり、私の勉強をずっとサポートしてロータリーの皆さん、アットホームな大学院の先生たち、一緒に勉強した同志のクラスメート、留学生たちの笑顔。
私が今まで毎日当たり前にしていた光景が明日から消えてしまうのかと、寂しさが募ります。
最後まで皆さん、応援していただき本当にありがとうございました。
自分の可能性を信じて、また新しい扉を開いていきたいと思います。
Aiko
(このブログはこれでいったん終了にしようと思います。もし進学が決まれば、新たにブログを始めるかもしれませんが今日で終わりにします。今まで読んでいただきありがとうございました。)
2012/12/21
Tulane life is over 卒業。帰国まであと3日
やっとすべてのテストの結果が返却(オンラインで成績が見れます)。全て試験をクリアしたので、卒業しました!論文もその他のもろもろも全てクリアし、あとは成績のみでした。
12月は卒業式がないので、実感がありませんが。米国の卒業式はだいたい春の5月頃に一斉にされます。卒業のタイミングはうちの大学の場合は5月、8月、12月です。来年早々、実家に大きな卒業証明書が送られてくる予定です。
テスト期間中は夜中3時まで図書館で勉強をする日々が続き、途中で何度もこのテストという試合を離脱しようと思ったことか・・・。平均睡眠時間は4時間でした。夜中3時でも結構勉強している人多いんです。大学の図書館が24時間365日使えるから。
がんばった甲斐あってか、最終MPHの私のGPAは3.67になりました(今学期B+を一教科取ってしまったけど、あとは全てAまたはA-を取りました)。
今日またGREを受け、前回のテストと同じスコアだったため、もう一度日本で受けようかと考え中です。私のスコアはVerbalとMathを合わせて301点(旧式でいうと1100点くらい)。GREの点数は博士課程の必須条件ではないけど、米国人の学生と同じスタートラインに立ちたいのでがんばろうかと思います。
TOEFLは勉強せずに受けたわりにはよかったほうかも。ibTのテストが95点でした。私は80点台のぎりぎりのスコアでこの大学院を受験したので、この1年間ちょっとで、少しでも英語が伸びたのかもしれません。
今日から荷物のパッキングを開始します。先週末から帰国まで、米国人のクラスメートや留学生の友達とのお別れ食事会が続き、明日はロータリーのホストファミリーが私のために送別会を開いてくれます。留学生の友達も招待して。私の学科の中で、12月の留学生の卒業生は私だけなのでみんなに会えないのは寂しく、考えただけで泣きそうです。支えてくれる皆さんには感謝しても感謝しきれないくらいです。
アカデミックアドバイザーのマーク先生にさようならするだけでもつらかったです。最後に私へ手紙を書いて私にくれただけで半泣きです。"I am optimistic. Don't worry, you will come back!"と言ってくれました。本当に来年博士の学生として帰ってくることができればよいですが。
帰国まであと3日。最後にニューオーリンズを堪能して帰ります。
12月は卒業式がないので、実感がありませんが。米国の卒業式はだいたい春の5月頃に一斉にされます。卒業のタイミングはうちの大学の場合は5月、8月、12月です。来年早々、実家に大きな卒業証明書が送られてくる予定です。
テスト期間中は夜中3時まで図書館で勉強をする日々が続き、途中で何度もこのテストという試合を離脱しようと思ったことか・・・。平均睡眠時間は4時間でした。夜中3時でも結構勉強している人多いんです。大学の図書館が24時間365日使えるから。
がんばった甲斐あってか、最終MPHの私のGPAは3.67になりました(今学期B+を一教科取ってしまったけど、あとは全てAまたはA-を取りました)。
今日またGREを受け、前回のテストと同じスコアだったため、もう一度日本で受けようかと考え中です。私のスコアはVerbalとMathを合わせて301点(旧式でいうと1100点くらい)。GREの点数は博士課程の必須条件ではないけど、米国人の学生と同じスタートラインに立ちたいのでがんばろうかと思います。
TOEFLは勉強せずに受けたわりにはよかったほうかも。ibTのテストが95点でした。私は80点台のぎりぎりのスコアでこの大学院を受験したので、この1年間ちょっとで、少しでも英語が伸びたのかもしれません。
今日から荷物のパッキングを開始します。先週末から帰国まで、米国人のクラスメートや留学生の友達とのお別れ食事会が続き、明日はロータリーのホストファミリーが私のために送別会を開いてくれます。留学生の友達も招待して。私の学科の中で、12月の留学生の卒業生は私だけなのでみんなに会えないのは寂しく、考えただけで泣きそうです。支えてくれる皆さんには感謝しても感謝しきれないくらいです。
アカデミックアドバイザーのマーク先生にさようならするだけでもつらかったです。最後に私へ手紙を書いて私にくれただけで半泣きです。"I am optimistic. Don't worry, you will come back!"と言ってくれました。本当に来年博士の学生として帰ってくることができればよいですが。
帰国まであと3日。最後にニューオーリンズを堪能して帰ります。
2012/12/08
帰国までおよそ2週間
昨日でMPH生活の全ての授業が終わりました。あとは2つのペーパーと期末テスト1教科のみ。
博士課程の奨学金のためのTOEFLを今日受験し、GREは帰国4日前に受ける予定です。最後の最後までねばります。
授業も終わり、もうこのニューオーリンズにいる時間もわずかと思うと、郷愁に浸りたくなる気持ちです。ただやらなければいけないことが多すぎて、そんな暇もないと言った感じです。
今抱えている1つのペーパーはDHS(Demographic Health Surveys)で働いていた教授から、ルワンダのHIVに関する生データをもらい、それを分析し、レポートに落とすというもの。こういう課題は実践的でやりがいがあります。Monitoring & Evaluation of HIV/AIDSというクラスの最終課題で、今学期でも1,2に興味深かったクラスです。
もう1つのペーパーは開発学の最終課題で、教授のだした選択本を1冊選び、それに関してケーススタディーし分析、ディスカッションし仕上げるというもの。6ページです。この読物が最後!
最後の期末テストはSurvey of Environmental Health(環境衛生の調査)というコアコースのテストです。このクラスはコアだけにあまり面白くなかったかも。やっぱり上記の選択クラスは面白かったけど(ただPhDの学生向けのクラスだけに大変でしたが)。
帰国まであと17日。ゴールは目の前。気を引き締めて最後まで走り抜けます。
(東北でまた大きな地震があったことをオンラインニュースでみました。寒い時期になり、大きな地震が来ると、あの3月11日がフラッシュバックされるのではととても心配です。もうこれ以上大きな地震が日本にきませんように祈るばかりです。)
博士課程の奨学金のためのTOEFLを今日受験し、GREは帰国4日前に受ける予定です。最後の最後までねばります。
授業も終わり、もうこのニューオーリンズにいる時間もわずかと思うと、郷愁に浸りたくなる気持ちです。ただやらなければいけないことが多すぎて、そんな暇もないと言った感じです。
今抱えている1つのペーパーはDHS(Demographic Health Surveys)で働いていた教授から、ルワンダのHIVに関する生データをもらい、それを分析し、レポートに落とすというもの。こういう課題は実践的でやりがいがあります。Monitoring & Evaluation of HIV/AIDSというクラスの最終課題で、今学期でも1,2に興味深かったクラスです。
もう1つのペーパーは開発学の最終課題で、教授のだした選択本を1冊選び、それに関してケーススタディーし分析、ディスカッションし仕上げるというもの。6ページです。この読物が最後!
最後の期末テストはSurvey of Environmental Health(環境衛生の調査)というコアコースのテストです。このクラスはコアだけにあまり面白くなかったかも。やっぱり上記の選択クラスは面白かったけど(ただPhDの学生向けのクラスだけに大変でしたが)。
帰国まであと17日。ゴールは目の前。気を引き締めて最後まで走り抜けます。
(東北でまた大きな地震があったことをオンラインニュースでみました。寒い時期になり、大きな地震が来ると、あの3月11日がフラッシュバックされるのではととても心配です。もうこれ以上大きな地震が日本にきませんように祈るばかりです。)
2012/11/27
牛を売るか?売らないか?
この1か月で、まるまる英語の本、2冊を読みました。しかも開発学の授業の本なので、奥が深い。米国人のクラスメートも「Dense! (難解だ!)」とみんな言っています。
2冊目の本は、まだ読みやすく、スタンフォード大学の教授のJames Ferguson氏が書いた「The Anti-Politics Machine」という本。Amazonはこちら→The Anti-Politics Machine
この本はアフリカ南部のレソト王国という国で、1970年代後半に世界銀行とCanadian International Development Agency(CIDA)というカナダ政府の国際開発部が始めたプロジェクトの話。
何億というお金を投入し、家畜業の改善、地方分権化を図り、レソト王国内の市場経済の促進をしようというもの。
はじめは軌道に乗ったかと思われたプロジェクト。しかし、プロジェクトが終わる5年間の間に様々なことが起こります。
経済の循環がうまくいかず、いつまでたっても貧困で、教養もなく、家畜業を効率的にやること(Livestock Development)が重要だと思った世銀スタッフとCIDA。
プロジェクトサイトの郡に牛用の牧場を立て、そこに村人の牛を預けると、訓練を受けたローカルスタッフが牛の成長を改善させ、その改善された牛は村人のもとに帰ってき、村人はその牛をマーケットへ高価格で売り出す。
効率的に健康な家畜を育てなければ、牛の価値は下がるし、マーケットに売り出すこともできない。
この理論を世銀、CIDA、政府から受けた村人たちは、「わかりました。協力します!」と言い返事はよいものの、誰も牛を預けにこない。やがて牧場の草を食べる牛はほとんどいなくなり、牧場の草は伸びきって、とても牛が歩けそうにもないし、肝吸虫が牧場にはたくさんいるという噂までたつ始末。
このことを不思議に思った筆者(人類学者)はなぜ人々が牛を渡さないのか調査にでます。
そのインタービューの様子がこちら↓
筆者:もし誰かが牛をあげるとあなたに言ったら、牛をもらいますか?
村人:もちろん。もらいます。
筆者:じゃあ、牛をあなたはもらったこととしますね。その数週後、まだ別の人が来て、もしあなたの持っている牛を高い値で買いたいと言ったらどうしますか?
村人:え?その人は私の牛が欲しいのですか?
筆者:そうです。あなたの牛を高値で買いたいと言っています。
村人:それなら、私は売りません。売らないと思います。
筆者:どうして?
村人:牛は私のものです。わかっています。私は牛を売って、お金を得るべきと。でも牛を売るのは特別な時しか売りません。
筆者:どうして?高額な値で売ってほしいと頼まれているのに?
村人:うーん・・・。
筆者:牛を売ることはできないんですか?
村人:私は決して牛を手放すという選択はしないと思います。だってそれは私のものだから。
こういうやりとりが何度も続きます。筆者は気づいたのです。旱魃に襲われたときも、政府は牛が死ぬ前に牛を早く売り、お金に変えなさいと村人に通告しても、誰も売ろうとしなかったのです。
なぜなら、牛は村人(特に男性)にとってプライドだったからなのです。それはお金には変えられないもの。たとえ牛が弱っていて、死にかけでも牛の数は、彼らのプライドとしてそのコミュニティー内で認識されていたからです。
じゃ、牛を売って、たくさん牛を買えばいいじゃないの?と思うかもしれないですが、彼らの文化、社会規範が私たちの常識よりも上回り、そうはさせないのです。
ブログで簡潔に説明するのが、難しいのですが、よかれと思ってやっている西欧の支援が村人たちの文化を蝕むことがあります。最後には管理能力の低い国で、地方分権を導入すること自体が、さらに利権の奪いあいを高め、プロジェクトの運営どころではなくなってしまいます。
筆者はこの著書で解決方法を述べていませんが、開発援助の世界ではこんな事例が山ほどあるとエピローグで語っています。現地の貧しい人がなぜ開発がうまくいかないのかを知っていたのに、そこを援助団体は見逃していたのです。
私もメータオ・クリニックにいた時に、患者さんがマラリアに罹るのはマンゴーを食べたせいだからだと信じている人が多かったのを不思議に思っていました。よく途上国でマラリアの蚊よけの蚊帳を漁業用のネットとして使っていることが失敗例として出されています。
牛の話とは関係ないですが、こういうルーツを調べたらなんだか、マラリア対策や他の問題ももっと改善したりしないかなと思います。
2冊目の本は、まだ読みやすく、スタンフォード大学の教授のJames Ferguson氏が書いた「The Anti-Politics Machine」という本。Amazonはこちら→The Anti-Politics Machine
この本はアフリカ南部のレソト王国という国で、1970年代後半に世界銀行とCanadian International Development Agency(CIDA)というカナダ政府の国際開発部が始めたプロジェクトの話。
何億というお金を投入し、家畜業の改善、地方分権化を図り、レソト王国内の市場経済の促進をしようというもの。
はじめは軌道に乗ったかと思われたプロジェクト。しかし、プロジェクトが終わる5年間の間に様々なことが起こります。
経済の循環がうまくいかず、いつまでたっても貧困で、教養もなく、家畜業を効率的にやること(Livestock Development)が重要だと思った世銀スタッフとCIDA。
プロジェクトサイトの郡に牛用の牧場を立て、そこに村人の牛を預けると、訓練を受けたローカルスタッフが牛の成長を改善させ、その改善された牛は村人のもとに帰ってき、村人はその牛をマーケットへ高価格で売り出す。
効率的に健康な家畜を育てなければ、牛の価値は下がるし、マーケットに売り出すこともできない。
この理論を世銀、CIDA、政府から受けた村人たちは、「わかりました。協力します!」と言い返事はよいものの、誰も牛を預けにこない。やがて牧場の草を食べる牛はほとんどいなくなり、牧場の草は伸びきって、とても牛が歩けそうにもないし、肝吸虫が牧場にはたくさんいるという噂までたつ始末。
このことを不思議に思った筆者(人類学者)はなぜ人々が牛を渡さないのか調査にでます。
そのインタービューの様子がこちら↓
筆者:もし誰かが牛をあげるとあなたに言ったら、牛をもらいますか?
村人:もちろん。もらいます。
筆者:じゃあ、牛をあなたはもらったこととしますね。その数週後、まだ別の人が来て、もしあなたの持っている牛を高い値で買いたいと言ったらどうしますか?
村人:え?その人は私の牛が欲しいのですか?
筆者:そうです。あなたの牛を高値で買いたいと言っています。
村人:それなら、私は売りません。売らないと思います。
筆者:どうして?
村人:牛は私のものです。わかっています。私は牛を売って、お金を得るべきと。でも牛を売るのは特別な時しか売りません。
筆者:どうして?高額な値で売ってほしいと頼まれているのに?
村人:うーん・・・。
筆者:牛を売ることはできないんですか?
村人:私は決して牛を手放すという選択はしないと思います。だってそれは私のものだから。
こういうやりとりが何度も続きます。筆者は気づいたのです。旱魃に襲われたときも、政府は牛が死ぬ前に牛を早く売り、お金に変えなさいと村人に通告しても、誰も売ろうとしなかったのです。
なぜなら、牛は村人(特に男性)にとってプライドだったからなのです。それはお金には変えられないもの。たとえ牛が弱っていて、死にかけでも牛の数は、彼らのプライドとしてそのコミュニティー内で認識されていたからです。
じゃ、牛を売って、たくさん牛を買えばいいじゃないの?と思うかもしれないですが、彼らの文化、社会規範が私たちの常識よりも上回り、そうはさせないのです。
ブログで簡潔に説明するのが、難しいのですが、よかれと思ってやっている西欧の支援が村人たちの文化を蝕むことがあります。最後には管理能力の低い国で、地方分権を導入すること自体が、さらに利権の奪いあいを高め、プロジェクトの運営どころではなくなってしまいます。
筆者はこの著書で解決方法を述べていませんが、開発援助の世界ではこんな事例が山ほどあるとエピローグで語っています。現地の貧しい人がなぜ開発がうまくいかないのかを知っていたのに、そこを援助団体は見逃していたのです。
私もメータオ・クリニックにいた時に、患者さんがマラリアに罹るのはマンゴーを食べたせいだからだと信じている人が多かったのを不思議に思っていました。よく途上国でマラリアの蚊よけの蚊帳を漁業用のネットとして使っていることが失敗例として出されています。
牛の話とは関係ないですが、こういうルーツを調べたらなんだか、マラリア対策や他の問題ももっと改善したりしないかなと思います。
2012/11/23
Happy thanksgiving!
今日はアメリカ国民のもっとも重要ともいえるThanksgivingの日です。学校は休み。去年と同様、ロータリークラブのホストファミリーの家にお邪魔し、ご飯を食べてきました。今年も動けないほど、たくさんおいしいものをいただきました。
このThanksgiving休みは今週日曜まで。この間にPhDに関係する奨学金の書類(量がものすごい多い!)を書いたり、読み切れてなかったReadingを読んだりこの休日に大変助かっています。
修士課程卒業までもう1か月を切りました。あとは期末テストと残りの宿題を片づけるのみ。帰国まではあと1か月です。その間になんとTOEFL(これは奨学金の書類のひとつ)とGRE(11月上旬に受けた点数が2点足りなかった・・・)を受けます。PhDは出願しました。12月のGREスコアがよければもう一度提出し直そう思います。
ゴールはもう目前。最後の最後まで全力を注いでMPH取得まで走り切ります!
このThanksgiving休みは今週日曜まで。この間にPhDに関係する奨学金の書類(量がものすごい多い!)を書いたり、読み切れてなかったReadingを読んだりこの休日に大変助かっています。
修士課程卒業までもう1か月を切りました。あとは期末テストと残りの宿題を片づけるのみ。帰国まではあと1か月です。その間になんとTOEFL(これは奨学金の書類のひとつ)とGRE(11月上旬に受けた点数が2点足りなかった・・・)を受けます。PhDは出願しました。12月のGREスコアがよければもう一度提出し直そう思います。
ゴールはもう目前。最後の最後まで全力を注いでMPH取得まで走り切ります!
2012/11/10
チュレーン大学公衆衛生熱帯医学校100周年記念
久しぶりにブログ更新です。論文の最終提出や授業のプレゼン、またタイトルからお分かりになるように本日学校の100周年記念があったので、その学生ポスタープレゼンの準備とずっと忙しい日々が続いていました。しかもまだPhD進学の書類準備とGREの勉強しています。
30歳を無事迎えられたのも、いつも支えてくださる周りの皆さん(あまりにも多くの方に支えられて今を生きていると感じます)のおかげです。本当にありがとうございます!
今日は私が所属する公衆衛生熱帯医学校の100周年記念式典がありました。この大学の公衆衛生学校は米国で実は一番古い歴史のある学校です。
1800年代に米国南部に蔓延していたマラリア、コレラ、黄熱の研究をするための州医学校として設立されました。
そこから派生し1912年に設立された今のチュレーン大学公衆衛生熱帯医学校です。アフリカのアンゴラで臨床をし、ロンドン大学公衆衛生熱帯医学校で勉強した米国人医師がこの学校の設立者です。そしてMPHができたのは1947年です。今のチュレーンのうたい文句は「チュレーンは国際保健が国際的に注目される前からGlobal Healthをやってきました」。なのでA Century of Commitment to Global Healthが大きくいたる看板に書かれています。
大学周辺では100周年記念のポスターが並びます。
校舎にも100周年の看板。
学校玄関にもポスターがずらり。
こちら学校ロビー。大きな100周年垂れ幕がかかっています。
ポスタープレゼンの参加賞として100周年オリジナルTシャツをゲットしました。そして今月号のAmerican Journal of Epidemiology(疫学の米国雑誌)はチュレーン大学100周年の特集です。
明日も式は続き、エモリー大学、米国疾病予防センター(CDC)、ハ―バード大学、ロンドン大学公衆衛生熱帯医学校の学校長などのゲストレクチャーがあります。盛り上がりそうです。米国の大学院で勉強していると他の米国の公衆衛生学校のゲストレクチャーに参加できる機会もよくあります。
まあ、なんてタイミングに私はチュレーンで勉強しているのかと感慨深いです。そして実は私の30歳の誕生日だったりします。時間が経つのは早いです。
20代は本当にいろんなことに挑戦し、親元から離れ、上京して就職し、タイ・ビルマ国境に行って医療ボランティアをしたり、長崎大学で熱帯医学を勉強し、最後には米国の公衆衛生大学院で勉強と、実に人生は予測がつきません。猪突猛進で突き進んだ20代でしたが本当に楽しかったです。子どもの頃からの夢が目標へと変遷していった20代。
30代はできれば博士課程に進学し、この分野を極めて専門家として自分が大好きと思える仕事をしたいです。願わくば40歳になったときに子ども二人くらいを育てながら、旦那さんとどこかの途上国で働けてたら最高だなぁと思います。少子高齢化に関心があるので結婚、出産をし日本社会へも貢献したいなと思います。
30歳を無事迎えられたのも、いつも支えてくださる周りの皆さん(あまりにも多くの方に支えられて今を生きていると感じます)のおかげです。本当にありがとうございます!
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