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2011/06/14

たこ焼き@岩手県大槌町

先週末におかげさまで無事退職しました。退職して早々の夜勤明けで私と友達が新幹線に乗って向かったその先はなんと岩手県。

あの3月末にAMDAで行った被災地、岩手県大槌町のことが私の頭の片隅に常にありました。
「日本を去る前に頭へ今の日本の現状を焼き付けて出国したい。」
そんな思いで今回の岩手県行を計画しました。

そして、なんと大阪人としての誇りをもって、たこ焼きを炊き出しの品にする!という無謀な計画(炊き出しにはたくさんの食材と機材が必要!)を立てたにもかかわらず、新人時代の病院の上司である師長さん、先輩、同僚とともにたこ焼きをすることになりました。結局は大槌で活動する大手NPOにたくさんお手伝いをしてもらいできたということが正直なところですが。。。

何はともあれ、何百個というたこ焼きをあんなに必死で作るみんなの姿みたことはありません。
大人数人が鉄板に群がり、鉄板の上で無言で必死に作る姿。外から見たら異様だったと思います(苦笑)


                         作ったたこ焼き

                         熊本のだご汁
         (たこ焼きだけではさみしいので熊本出身の上司が率先して作ってくれました)

「たこ焼きをね、みんなずっと楽しみにしてたんですよ。いつになったらたこ焼きの炊き出しが来るんだっててみんなで噂をしてたんですよ。大槌には昔たこ焼き屋さんが一店あったけど津波で壊れてしまったし、地震があってからみんなたこ焼きを食べてないんですよ。本当に美味しかったです。」

避難所のかわいらしいおばあちゃんが私に笑顔でお話してくれました。たこ焼き隊長としてはこの言葉本望です。嬉しい。

そして2時46分サイレンが町中を鳴り響かせ、黙とうをみんなで捧げます。私たちが大槌を訪れたのは6月11日。地震からちょうど3か月目でした。

はっきり言って3カ月たった今も状況は著しく改善しているとは言い難いです。私が訪れた避難所では今もなお130名あまりの方々が共同生活を余儀なくされています。がれきが片づけられていない町。避難所、被災地の人々の心を簡単に共感できるなんて私にはできない。でもたくさんの人にこの現状を伝えていきたい。

アメリカに行く前の私の脳裏に刻みこんだ一日でした。

2011/04/16

マイケル・サンデル氏が東日本大震災を語る

さっきまでNHKで放映された「マイケル・サンデル 究極の選択」大震災特別講義にくぎ付けでした。最近までマイケル・サンデル著「ハーバード白熱教室・講義録」を読んでいただけに大変興味深いものでした。

「東日本大震災でハリケーンカトリーナのときのように暴動がおきなかったのはなぜか?」

この質問私もアメリカ人の友達にされました。日本人がパニックにもならずに列をなして配給を待つ姿に感動したと言われました。

秩序を守るという美徳を持つ日本人。

日本はコミュニタリズム(共同体主義)を重んじる民族だからという参加者の声に私も納得してしまいました。島国という土地柄、基本、単一民族であるがために共同体を重んじる精神があるのではということ。家族も隣の人も、町に住んでいる人もどこかで血がつながっているかもしれないから自分だけがよければいいのではと思えない。

でもこの理由の裏側に何らかのみえない力で自分だけが勝手をしてはいけないという、倫理観を守らねばいけないという抑制が働いているからだともいえる気がします。それは日本の社会の風潮だったりするかもしれない。思ったことを自由に表現できないのは他者の目を気にしてしまう社会だからかもしれません。

反対に個人主義が明るみになったハリケーンカトリーナの災害(これから勉強するTulane大学はカトリーナがあったニューオーリンズにあります。災害援助に長けている大学)

貧しい地域であったことも含め、多民族で形成されるコミュニティーだけに他者の価値観がわからず不安が起き暴動につながったのではという意見。また私が思うにはあのときのブッシュ政権の対応が暴動に拍車をかけたというのも大きな理由だと思います(米国政府は震災後数日経過して援助のオペレーションをし対応に遅れがあったと言われています。堤未果氏著「貧困大国 アメリカ」に詳しく書かれています)。

講義の最後にマイケルさんが投げかけた「共感は国境を超えるか?」

意訳しますが、ジャン=ジャック・ルソーは「人々は他国の災害を共感することはできない」と説いたのに対し、果たして今もそうなのかということをマイケルさんは投げかけました。

私の答えはノーです。実際世界各国でPray For Japan(日本のために祈りを)の声が上がっているのを聞いています。私のFaceBookやE-mailへ地震直後、世界各地にいる友人達から励ましの声をもらいました。貧しい国でも、私がいたタイとビルマ国境の町メソトでもこの地震のためのチャリティーが開かれました。

グローバリゼーションが広がる現代に共感は確実に広がっていると私は信じています。
そして世界からの温かいエールに日本が元気づけられていること、世界へ発信していきたいです。

最後にいつだったかUNHCRのポスターか何かに書かれていた言葉。

"Sympathy can not help people, but without sympathy we can not help people!"
(共感は人々を救うことができないけれど、共感なしに私たちは人々を救えない。)

2011/04/03

東日本大地震・岩手県大槌町

2011年3月11日午後2時47分。宮城県沖でM9.0の巨大地震が発生したくさんの尊い命を地震と津波がさらっていきました。

阪神・淡路大震災で被災した私はいてもたってもいられず3月11日からテレビ、新聞、インターネットにくぎづけとなり、どうにかして被災地に入るチャンスがないかとうかがっていました。そんな思いが通じてか、職場から1週間のお休みをいただき、最も津波の被害を受けた被災地のひとつと言われる被災地の岩手県大槌町へAMDAという緊急医療援助団体を通じて派遣されました。

大槌町は人口約1万5000人という小さな町です。人口の約40%の方々が漁業を営んでいました。
3月11日災害対策会議の最中に巨大津波が役場を襲い、町長、役場の方々の命ものともさらっていきました。そのため現在は生き残った役場の数名の方々によって避難所の運営等を行っていますが行政機能はほとんど停止していると言わざる負えない状態です。


                          倒壊した役場
4月1日時点での避難者数は2753人。遺体収容数は536人。行方不明者数は1051人(大槌町災害対策本部情報)。

新聞各社では大槌町を壊滅状態と報道していますが、壊滅状態という言葉だけではそのむごさを言葉では表現できません。私は過呼吸になりそうになりながら津波が襲ったその町をみてきました。海鳥たちの鳴き声。潮の匂い。町中に立ち込める腐敗臭。がれきの中で失ったものを探す町の人々。気がつくと私の眼から涙が溢れていました。

                       高台からみた大槌町


                   民家の上に漁船が乗っている様子

                        廃墟となった町      
         
私たちは避難所のひとつである弓道場で地元の開業医の先生とともに診療を行ったり、弓道所近くの避難所や周辺に暮らす方々の家へ巡回診療を行いました。夜には避難所で当直も行いました。

地元の開業病院3院とも津波によって倒壊し、県病院の大槌病院でも被害を受け、その職員が地震発生後不眠不休で避難所等働かれていたようですが、その活動を休止し4月15日まで家の整理や身内の安否確認のためにお休みをとられ医療従事者が不足していました。

弓道所内の避難所では地震発生後20日目にして電気が通り、その数日後水も通りました。避難所では約200~300人近くの方々が身をひそめあって生活していました。日に何度もくる大きな余震を私も体験しました。まずはじめに地鳴りが聞こえ、避難所の大きな壁や窓が太鼓のように鳴り響き、まるで箱の中で私たちは揺らされているような感覚に陥りました。

外来では津波、地震による外傷で来る患者さんはおらず、ほとんど高血圧、糖尿病等の慢性疾患、風邪、花粉症などで受診を希望する患者さんばかりでした。お薬手帳が津波によって流され何の薬を飲んでいたかわからない人、埃っぽく寒い避難所で風邪をこじらせる人、慣れない共同生活で便秘になる人。

消灯後の真っ暗な避難所では咳の音があちこちから聞こえ避難所内に響きました。昼間に外来にきた患者さんが言った「周りの人を気にしてしまうから咳がしずらい」という言葉を思いだしました。

夜中3時「看護婦さん、お父さんが(尿を)もらしたんだけどどうしよう。はずかしくて周りの人にみられたくなくって。」熱発していた夫を介護する70代の女性に起こされました。避難所では家族ごとにプライバシーを守る壁やカーテンはありません。

避難所での生活は私がかつて働いていたビルマの難民診療所メータオ・クリニックそのものでした。

「黒い壁が町を襲っていくのを見えました。津波がバキバキという音をたて私たちの町を飲み込んでいきました。それをみて私も町の人たちは泣き叫んでいました。ガソリンスタンドが燃え、大槌の山を赤く照らしていたのを昨日のように思い出します。」
帰り大槌町でタクシー運転手さんをしていたというAMDAのドライバーさんが当時の様子を話してくれました。彼のタクシー会社も津波に流され、会社の社長も社員も亡くなりました。

「元気な大槌を見にまた帰ってきてね!今度はおいしい三陸丼食べさせてあげるからね!」と帰り際避難所で働く地元の看護師さんに言われました。

急患がでたと言えばたくさんの人が患者さんの移動を手伝いにきます。6時半にはみんなでラジオ体操をし、7時からみんなで避難所内の掃除がはじまります。毎日班ごとにトイレ掃除もします。ひとりでいるお年寄りには大人、子供問わず声をかけます。

大槌の皆さんは負けません。私はそう信じています。

この大地震でお亡くなりになった方々へ心よりご冥福をお祈り申し上げます。