2011年3月11日午後2時47分。宮城県沖でM9.0の巨大地震が発生したくさんの尊い命を地震と津波がさらっていきました。
阪神・淡路大震災で被災した私はいてもたってもいられず3月11日からテレビ、新聞、インターネットにくぎづけとなり、どうにかして被災地に入るチャンスがないかとうかがっていました。そんな思いが通じてか、職場から1週間のお休みをいただき、最も津波の被害を受けた被災地のひとつと言われる被災地の岩手県大槌町へAMDAという緊急医療援助団体を通じて派遣されました。
大槌町は人口約1万5000人という小さな町です。人口の約40%の方々が漁業を営んでいました。
3月11日災害対策会議の最中に巨大津波が役場を襲い、町長、役場の方々の命ものともさらっていきました。そのため現在は生き残った役場の数名の方々によって避難所の運営等を行っていますが行政機能はほとんど停止していると言わざる負えない状態です。
倒壊した役場
4月1日時点での避難者数は2753人。遺体収容数は536人。行方不明者数は1051人(大槌町災害対策本部情報)。
新聞各社では大槌町を壊滅状態と報道していますが、壊滅状態という言葉だけではそのむごさを言葉では表現できません。私は過呼吸になりそうになりながら津波が襲ったその町をみてきました。海鳥たちの鳴き声。潮の匂い。町中に立ち込める腐敗臭。がれきの中で失ったものを探す町の人々。気がつくと私の眼から涙が溢れていました。
高台からみた大槌町
民家の上に漁船が乗っている様子
廃墟となった町
私たちは避難所のひとつである弓道場で地元の開業医の先生とともに診療を行ったり、弓道所近くの避難所や周辺に暮らす方々の家へ巡回診療を行いました。夜には避難所で当直も行いました。
地元の開業病院3院とも津波によって倒壊し、県病院の大槌病院でも被害を受け、その職員が地震発生後不眠不休で避難所等働かれていたようですが、その活動を休止し4月15日まで家の整理や身内の安否確認のためにお休みをとられ医療従事者が不足していました。
弓道所内の避難所では地震発生後20日目にして電気が通り、その数日後水も通りました。避難所では約200~300人近くの方々が身をひそめあって生活していました。日に何度もくる大きな余震を私も体験しました。まずはじめに地鳴りが聞こえ、避難所の大きな壁や窓が太鼓のように鳴り響き、まるで箱の中で私たちは揺らされているような感覚に陥りました。
外来では津波、地震による外傷で来る患者さんはおらず、ほとんど高血圧、糖尿病等の慢性疾患、風邪、花粉症などで受診を希望する患者さんばかりでした。お薬手帳が津波によって流され何の薬を飲んでいたかわからない人、埃っぽく寒い避難所で風邪をこじらせる人、慣れない共同生活で便秘になる人。
消灯後の真っ暗な避難所では咳の音があちこちから聞こえ避難所内に響きました。昼間に外来にきた患者さんが言った「周りの人を気にしてしまうから咳がしずらい」という言葉を思いだしました。
夜中3時「看護婦さん、お父さんが(尿を)もらしたんだけどどうしよう。はずかしくて周りの人にみられたくなくって。」熱発していた夫を介護する70代の女性に起こされました。避難所では家族ごとにプライバシーを守る壁やカーテンはありません。
避難所での生活は私がかつて働いていたビルマの難民診療所メータオ・クリニックそのものでした。
「黒い壁が町を襲っていくのを見えました。津波がバキバキという音をたて私たちの町を飲み込んでいきました。それをみて私も町の人たちは泣き叫んでいました。ガソリンスタンドが燃え、大槌の山を赤く照らしていたのを昨日のように思い出します。」
帰り大槌町でタクシー運転手さんをしていたというAMDAのドライバーさんが当時の様子を話してくれました。彼のタクシー会社も津波に流され、会社の社長も社員も亡くなりました。
「元気な大槌を見にまた帰ってきてね!今度はおいしい三陸丼食べさせてあげるからね!」と帰り際避難所で働く地元の看護師さんに言われました。
急患がでたと言えばたくさんの人が患者さんの移動を手伝いにきます。6時半にはみんなでラジオ体操をし、7時からみんなで避難所内の掃除がはじまります。毎日班ごとにトイレ掃除もします。ひとりでいるお年寄りには大人、子供問わず声をかけます。
大槌の皆さんは負けません。私はそう信じています。
この大地震でお亡くなりになった方々へ心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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