2011/04/28

MPHまでの道②~渡米3か月前~

渡米までとうとう残り3カ月をきりました。意味もなく不安にかられる毎日です。こんな準備でほんまに大丈夫なのか私・・・いつも考えています。

大学からI-20という入学許可書もき、オンラインで学生ビザの申請を提出しました。5月上旬に面接です。
予防接種も無事すませ、健康診断書も提出しました(MMRはすべて抗体価が高かったので打たなくてすみました。3月にTdapという破傷風ジフテリア混合の成人用ワクチン、狂犬病ワクチンのブースターをうちました)。

渡航チケットはロータリー財団の旅行代理店で購入し奨学金でまかなわれる予定です。ビザ獲得後、財団へビザのコピーの提出をし渡航チケットが予約される予定です。

コンタクトレンズの予備を買ったり、米国で使う予定の携帯電話の契約をしたり(KDDIが日本で契約し米国で使用できる携帯の斡旋をしています)もろもろこまごましたことはまだ残っています。

6月はじめに今の職場を退職し引っ越しもしなければいけない。

留学準備の各種手続きも大事なのですが、もっともやばいと感じているのは私の英語!!

6月末にロータリー財団奨学生の最終オリエンテーションがあり、英語でプレゼンをしなければいけません。15分くらい、私の自己紹介、私の故郷である大阪、また日本の紹介をする予定です。

英語ブラッシュアップしなければと思いつつ、日本の本ばかり読んでいる今日この頃。。。先週からすでに2冊も小説読んでしまった。。。

気晴らしに今日映画「英国王のスピーチ」(コリン・ファース主演)を観てきました。吃逆のある国王ジョージ6世(現エリザベス女王の父)のお話ですが、笑えて勇気をもらえました。

スピーチのレベルは全く違いますが私も6月末のスピーチに向けてがんばらねばなりません。米国でも奨学生としてスピーチをする予定です。

2011/04/22

MPHまでの道①~なぜ米国で?~

MPH(Master's degree of Public Health:公衆衛生修士号)を米国で取得しようと思いはじめたのは2008年、私がタイにいたころの話です。看護師としてメータオ・クリニックでできることに限界があるのではと思っていました。現地のスタッフのほうが熱帯医学の知識は富んでいます。
私が現地で展開していたのは院内感染予防と学校保健だったので、大きなますの目で対象をみ、実践的にアプローチする公衆衛生に興味を持ち始めていました。

クリニックやその近くで働く欧米NGOの多くの友達(米国人が多い)がMPHを取っており、彼らからMPHコースの話をよく聞いていたのもMPHを意識しはじめた理由です。

国際保健の専門家になるために、また国際機関や国際NGOで働くためにMPHを取ろう!その中でもアメリカを選択した理由は周りに米国人の友達が多かったこと、また米国に住んでみたかったことが大きな理由かもしれません。なぜ米国人は米国をナンバー1と思うか非常に興味があります。

もちろん米国以外にも大学はあります。イギリスの大学(ロンドン、リバプール、リーズなど)やタイの大学(マヒドン)などもMPHコースは有名なのですが、その多くが1年です。1年だけ勉強して果たして1年後自分が英語を操り自信をもって国際保健の舞台の上で働けるのか疑問があったこともあります。

チュレーン大学はMPHコースを通常2年で終える方がほとんどです。ハーバード、ジョンズホプキンスといった有名大学は1年。
私は2009年にチュレーン、ジョンズホプキンス、コロンビア大学の3校を受験し、チュレーン以外は落ちてしまいました。チュレーン大学の入学を1年間延期し、今年入学となった次第です。

私が思う米国MPHまでの受験で必要な3項目は以下です。

①やる気
根気が必要です。MPH受験までの長いプロセスだけで気持ちがめげそうになりました。そして今も入学準備、VISA手続などまだやることが多、く無事入学するまで本当に大変だと身に染みています。

②英語力
TOEFLを受験しなければいけません。TOEFLは海外留学生向けの英語の試験です。もう何回受験したのか数えられないくらい受験しました。おそらく15回は受験したかも。最低TOEFLの点数がIBT80点(PBT550点)以上はないと受験の話はすすめられないでしょう。

TOEFL以外にも大学院対象者用試験(米国人も)GREという英語の試験を受けなければいけません。GREはVerbal Section(語彙力、読解力), Quantitative Section(数学), Analythical Writing Section(論理的思考力をもった作文)から構成されています。これがまた2度とやりたくないくらいの難しい試験!今受験しろと言われてももうできない・・・。

③経済力
米国の授業料は半端なく高いことで有名です。教育が市場化していることが原因です。
1年目の生活費、学費を補えるか証明するために大学側が財政能力証明書の提出を求めてき、それをもってI-20(入学許可書)が発行されます。チュレーンの場合は53000(約450万円)ドルの証明書を提出しました。2年でおよそ800万円はかかるだろうと言われています。奨学金がなければこのMPHへの夢は打ち砕かれていたに違いありません。

以上3点がMPH受験までの大きなポイントだと思います。
これらをよく吟味して米国で受験することを考えたほうがよいかもしれません。

2011/04/16

マイケル・サンデル氏が東日本大震災を語る

さっきまでNHKで放映された「マイケル・サンデル 究極の選択」大震災特別講義にくぎ付けでした。最近までマイケル・サンデル著「ハーバード白熱教室・講義録」を読んでいただけに大変興味深いものでした。

「東日本大震災でハリケーンカトリーナのときのように暴動がおきなかったのはなぜか?」

この質問私もアメリカ人の友達にされました。日本人がパニックにもならずに列をなして配給を待つ姿に感動したと言われました。

秩序を守るという美徳を持つ日本人。

日本はコミュニタリズム(共同体主義)を重んじる民族だからという参加者の声に私も納得してしまいました。島国という土地柄、基本、単一民族であるがために共同体を重んじる精神があるのではということ。家族も隣の人も、町に住んでいる人もどこかで血がつながっているかもしれないから自分だけがよければいいのではと思えない。

でもこの理由の裏側に何らかのみえない力で自分だけが勝手をしてはいけないという、倫理観を守らねばいけないという抑制が働いているからだともいえる気がします。それは日本の社会の風潮だったりするかもしれない。思ったことを自由に表現できないのは他者の目を気にしてしまう社会だからかもしれません。

反対に個人主義が明るみになったハリケーンカトリーナの災害(これから勉強するTulane大学はカトリーナがあったニューオーリンズにあります。災害援助に長けている大学)

貧しい地域であったことも含め、多民族で形成されるコミュニティーだけに他者の価値観がわからず不安が起き暴動につながったのではという意見。また私が思うにはあのときのブッシュ政権の対応が暴動に拍車をかけたというのも大きな理由だと思います(米国政府は震災後数日経過して援助のオペレーションをし対応に遅れがあったと言われています。堤未果氏著「貧困大国 アメリカ」に詳しく書かれています)。

講義の最後にマイケルさんが投げかけた「共感は国境を超えるか?」

意訳しますが、ジャン=ジャック・ルソーは「人々は他国の災害を共感することはできない」と説いたのに対し、果たして今もそうなのかということをマイケルさんは投げかけました。

私の答えはノーです。実際世界各国でPray For Japan(日本のために祈りを)の声が上がっているのを聞いています。私のFaceBookやE-mailへ地震直後、世界各地にいる友人達から励ましの声をもらいました。貧しい国でも、私がいたタイとビルマ国境の町メソトでもこの地震のためのチャリティーが開かれました。

グローバリゼーションが広がる現代に共感は確実に広がっていると私は信じています。
そして世界からの温かいエールに日本が元気づけられていること、世界へ発信していきたいです。

最後にいつだったかUNHCRのポスターか何かに書かれていた言葉。

"Sympathy can not help people, but without sympathy we can not help people!"
(共感は人々を救うことができないけれど、共感なしに私たちは人々を救えない。)

2011/04/14

桜・井の頭恩賜公園にて

今日親友と桜を見に行ってきました!

東京にトータル5年は住んでいるのですが初めて吉祥寺の井の頭恩賜公園に行きました(私の出身は大阪市です)。

桜。なんともまぁ美しかった。



桜を来年みることはできないんだろうなと思いながら堪能してきました。再来年ももしかしたら卒業式迎えるために(米国の卒業式は5月)もしかしたらニューオーリンズにいる確率は高いし。卒業した後も日本で働くのかはたまた海外で働くのか不明だし。

このブログを書き始めた一番の理由は無事にチュレーン大学へ入学、卒業できるように自分を奮い立たせるために書いています。もうひとつの理由は今後米国大学院へいきたいけど情報収集したい、MPHを海外でとるってどんなこと?、国際保健って?等興味がある方へ情報発信していけたらなと思っています。私も受験のときはたくさんのブログやサイトを検索しましたが、米国のMPHを目指す方のブログがみつからなかったためです。

時間があるときに、受験、入学までの流れや、TOEFLの試験、奨学金などについて自分がどのように取り組んできたか皆様のご参考となるようにお伝えできればと思っています。

卒業(2013年5月目標)までお付き合いいただけると嬉しいです!

2011/04/13

まっすぐな気持ちで

今日1年ぶりに元上司(新人時代の師長さん)と食事に行きました。シニアの海外協力隊でエクアドルより先月戻られた師長さんは相変わらずパワフルです。話をしていると新人時代の私に戻るような気がします。

最近思うこと。まっすぐな気持ちで生きることが一番大切なんじゃないかと思うことです。

私が大学院に行くことについて「なんかキャリア志向に走っている人だなあ」と思われるかもしれませんが、自分のしたい仕事を専門家として仕事するためには勉強しなきゃはじまらないと思ったから大学院に行くことを決めました。

2007年7月~2009年5月までタイにあるメータオクリニックという診療所で国際医療ボランティアスタッフとして活動していました(活動時のブログ:きょうのメータオhttp://maetaostaff.269g.net/

一言で表現することは難しいのですが、タイにいたときの私は子供のころのように「めっちゃ楽しい!」と現地の人や町、食べ物すべての瞬間に魅了されていたような気がします。もちろんそりゃ何もうまくいかず落ち込んだり泣いたりすることもありましたが本当に忘れられない2年となりました。

子どもの時から信じて夢見てきた国際協力をもっと追究して、プロフェッショナルとして働きたいと強く思わされたのはタイでの活動があったからです。

そんな思いをもつことさながら、日本が地震と津波、原発という未曾有の危機に直面している中、渡米することは後ろ髪ひかれる思いではあります。

私が米国でできることは被災地で私が目で見て肌で感じたこと、日本の今を伝えることだと思っています。日本は近年若者が内向き傾向にあると新聞では伝えており、今年の米国留学する学生の数は過去最低だと読みました。震災によりその傾向がさらに加速するのではと思ったりしています。

「日本?そんな国あったっけ?」と言われないよう世界の片隅でも、細々とでも一日本人として国際貢献できる日本人になりたいな思っています。そしていろんな国でいろんな人と出会い笑顔になってみたい。

これは私の夢。

でも世間には形はさまざまですが、いろいろまっすぐな気持ちで毎日がんばっている人がいます。

私の病院の中。孫の笑顔を楽しみに、孫のおもちゃを買うために毎日定年後もパート職員として働くおばちゃん看護師。

避難所で生活する避難者が無事に暮らせるまで、避難所で自身もがんばり続けると言う岩手県大槌町の地元開業医の先生。

家庭をもち、また臨床勤務をしながらメータオ・クリニックを支えてくれるメータオ・クリニック支援の会のみんな。

海外のいろんな国で現地の人たちと笑いあい、青年海外協力隊隊員としてNGO職員として働く友達たち。

虐待を受けた子ども、家族の身寄りがいない子どものために施設で子どもたちと奮闘する私の親友。

みんなそれぞれ思いは違うけどまっすぐがんばる気持ちは一緒です。

誰かに評価されるから、よく見られたいからという気持ち、また評価されるのが怖いからという気持ち。そんなことはどうでもよくって、まっすぐな気持ちでがんばる人を認め、応援したい。もちろん私も無心で本当にやりたいことをがんばりたい。初心を忘れたらあかん!

師長さんに会ったこと、4月の桜はそんな気持ちを思いださせてくれます。


2011/04/03

東日本大地震・岩手県大槌町

2011年3月11日午後2時47分。宮城県沖でM9.0の巨大地震が発生したくさんの尊い命を地震と津波がさらっていきました。

阪神・淡路大震災で被災した私はいてもたってもいられず3月11日からテレビ、新聞、インターネットにくぎづけとなり、どうにかして被災地に入るチャンスがないかとうかがっていました。そんな思いが通じてか、職場から1週間のお休みをいただき、最も津波の被害を受けた被災地のひとつと言われる被災地の岩手県大槌町へAMDAという緊急医療援助団体を通じて派遣されました。

大槌町は人口約1万5000人という小さな町です。人口の約40%の方々が漁業を営んでいました。
3月11日災害対策会議の最中に巨大津波が役場を襲い、町長、役場の方々の命ものともさらっていきました。そのため現在は生き残った役場の数名の方々によって避難所の運営等を行っていますが行政機能はほとんど停止していると言わざる負えない状態です。


                          倒壊した役場
4月1日時点での避難者数は2753人。遺体収容数は536人。行方不明者数は1051人(大槌町災害対策本部情報)。

新聞各社では大槌町を壊滅状態と報道していますが、壊滅状態という言葉だけではそのむごさを言葉では表現できません。私は過呼吸になりそうになりながら津波が襲ったその町をみてきました。海鳥たちの鳴き声。潮の匂い。町中に立ち込める腐敗臭。がれきの中で失ったものを探す町の人々。気がつくと私の眼から涙が溢れていました。

                       高台からみた大槌町


                   民家の上に漁船が乗っている様子

                        廃墟となった町      
         
私たちは避難所のひとつである弓道場で地元の開業医の先生とともに診療を行ったり、弓道所近くの避難所や周辺に暮らす方々の家へ巡回診療を行いました。夜には避難所で当直も行いました。

地元の開業病院3院とも津波によって倒壊し、県病院の大槌病院でも被害を受け、その職員が地震発生後不眠不休で避難所等働かれていたようですが、その活動を休止し4月15日まで家の整理や身内の安否確認のためにお休みをとられ医療従事者が不足していました。

弓道所内の避難所では地震発生後20日目にして電気が通り、その数日後水も通りました。避難所では約200~300人近くの方々が身をひそめあって生活していました。日に何度もくる大きな余震を私も体験しました。まずはじめに地鳴りが聞こえ、避難所の大きな壁や窓が太鼓のように鳴り響き、まるで箱の中で私たちは揺らされているような感覚に陥りました。

外来では津波、地震による外傷で来る患者さんはおらず、ほとんど高血圧、糖尿病等の慢性疾患、風邪、花粉症などで受診を希望する患者さんばかりでした。お薬手帳が津波によって流され何の薬を飲んでいたかわからない人、埃っぽく寒い避難所で風邪をこじらせる人、慣れない共同生活で便秘になる人。

消灯後の真っ暗な避難所では咳の音があちこちから聞こえ避難所内に響きました。昼間に外来にきた患者さんが言った「周りの人を気にしてしまうから咳がしずらい」という言葉を思いだしました。

夜中3時「看護婦さん、お父さんが(尿を)もらしたんだけどどうしよう。はずかしくて周りの人にみられたくなくって。」熱発していた夫を介護する70代の女性に起こされました。避難所では家族ごとにプライバシーを守る壁やカーテンはありません。

避難所での生活は私がかつて働いていたビルマの難民診療所メータオ・クリニックそのものでした。

「黒い壁が町を襲っていくのを見えました。津波がバキバキという音をたて私たちの町を飲み込んでいきました。それをみて私も町の人たちは泣き叫んでいました。ガソリンスタンドが燃え、大槌の山を赤く照らしていたのを昨日のように思い出します。」
帰り大槌町でタクシー運転手さんをしていたというAMDAのドライバーさんが当時の様子を話してくれました。彼のタクシー会社も津波に流され、会社の社長も社員も亡くなりました。

「元気な大槌を見にまた帰ってきてね!今度はおいしい三陸丼食べさせてあげるからね!」と帰り際避難所で働く地元の看護師さんに言われました。

急患がでたと言えばたくさんの人が患者さんの移動を手伝いにきます。6時半にはみんなでラジオ体操をし、7時からみんなで避難所内の掃除がはじまります。毎日班ごとにトイレ掃除もします。ひとりでいるお年寄りには大人、子供問わず声をかけます。

大槌の皆さんは負けません。私はそう信じています。

この大地震でお亡くなりになった方々へ心よりご冥福をお祈り申し上げます。